その2

とりあえず今指定されてる課題は早めに仕上げておかなきゃならないわけだが、中古とか中世の授業に関しては正直ホント困る。
そもそもwackyに国文学なんて土台無理だったんじゃね?とお思いの方もきっといらっしゃると思う。


ところがどっこい、僕は上代文学に関してはその辺の国文学ヲタに負けないくらい書くことが出来るのだ。
何故上代文学にこれまでハマれたのかということは、ここ半年ほど僕の中でも疑問になっていたのだが、
今日友人と話していて、ふとした拍子にかなり納得のいく説が浮かんだのである。


僕は自他共に認める理論主義・実利主義者なので、感性や想像を基礎の方法とする、いわゆる「ネイティブの国文学」にはどうも馴染めないでいた。
しかし、まだ日本語が固定しないときに編まれた上代の文学と言うのは、まるで別の言語を読みとくように解読していかねばならない。
また、その内容は史実、伝承を無検証にかきあつめ、天皇の妄想をふんだんに混ぜこんで作り上げられている。
いわば、不条理の固まりなのだ。


僕は自分が理論主義なことは嫌いではないが、全ての事象に理論詰めでとっかかってしまう自分にあきれてしまうことはままある。
突き詰めないと気が済まない性分なのだ。


だから僕にとって、不条理は精神安定剤足りうる訳である。
逆説的かも知れないが、突き詰めきれないと分かっている物に対する憧れは、何処までも突き詰められるものと同等或いはそれ以上に有るものだ。


また、中古中世の文学は言ってしまえば虚の文学であるが、上代の場合そこに何割かの真実がほぼ確実に内包されているのである。
茶碗蒸しの銀杏探しに熱中してしまうように、真実をほじくりかえしていくことは楽しみに溢れている。
当に僕にはぴったりの学問ではなかろうか。


とか思いつつ、源氏好きの友人に手習のレポート⇔古事記のレポートで替え玉を提案したのだが無碍に断られた。
ふにゃ〜。。